現在でも紛争が起こっている国は決して少なくありません。 そして、何年も何十年も解決せずに紛争状態が長引いている地域では多くの死亡者が出ています。 2019年10月時点で解決していない紛争(内戦)について解説します。 ユーゴスラビアは、バルカン半島にありました。ギリシャのすぐ北、イタリアやオーストリアの東です。ここはヨーロッパとアジアの境目で、いろんな民族や宗教が混在していました。 バルカン半島といえば、「ヨーロッパの火薬庫」という言葉を聞いたことがあるでしょう。そう、多数の民族や宗教集団が入り乱れていたことから、争いが歴史上絶えなかった、というのが基本的なイメージです。ただし、実際にはそうではなく、第一次世界大戦以前には比較的安定して共存していました。 国連食糧農業機関(fao)の最新の報告書によると、2016年、世界の飢餓は悪化した。紛争、気候変動、政情不安など複数の要因が影響したと言う。faoによると、前年に比べ、状況が悪化するのは約10年ぶりのことで、世界の人口の11%が飢餓や、 原因や経過・その後などわかりやすく解説! 1914年から1918年にかけてヨーロッパでは第一次世界大戦が繰り広げられていました。 そしてこの戦争はヨーロッパの体制を根本から崩すこととなり、現在にもつながる影響も残すことになったのです。 トランプ大統領 は2017年、 エルサレムをイスラエルの首都と認定し、大使館を置くなどアラブ諸国との摩擦を生む行動も起こし … 日露戦争 1904〜1905年 日清戦争に勝利した日本は、清国に、数百年ものあいだ属国として扱ってきた朝鮮から手を引かせ、朝鮮を独立国とすることに成功しました。 また、この日本の勝利は、それまで清国こそがアジアで最も力のある国であると認識していた欧米列強に衝撃を与えました。 インタビューに答えるアイ―シャさん(仮名)(写真手前) ここまで、アフリカで紛争(内戦)が続く2つの原因について解説してきた。 ただ、これだけでは話の規模が大きく、リアリティをもってアフリカの紛争を捉えることは難しいだろう。 だから、僕がウガンダ共和国で出会った紛争の”被害者”を、少しだけ紹介させてほしい。 現在で最も世界の注目を集めている紛争といえば、このシリア内戦でしょう。 このシリア内戦、元々は「アサド政権」の「独裁や汚職」に不満を持つ民衆たちが2011年の初めの方に起こした「反政府デモ」が始まりです。 しかし、それ以降アメリカを初めとする西洋諸国や、サウジアラビアを初めアラブ諸国は、反体制派に支援を始めたと思いきや、一方のアサド政権の方には、元々シリアと友好的な関係だったロシアやイランが … この記事では、「紛争」と「戦争」の違いを分かりやすく説明していきます。「紛争」とは?「紛争」とは、物事がもつれて、結果的に争いになることを言います。また、個人、集団などの間で対立する利益、価値などをめぐり起きる行動、緊張した状態のことでもあ もともとセルビアは、今コソボがある土地で誕生した国です。なのでセルビア人はコソボがある土地を聖地だと考えています。 そんなセルビア人が住んでいたコソボにオスマン帝国(現トルコ)が攻めて来ました。オスマン帝国の勢力は強く、セルビアは敗北し、オスマン帝国が勝利しました。 オスマン帝国が支配したコソボからセルビア人は出て行き、代わりに隣国のアルバニア人が多く居住を構えることになりました。ちなみに、セルビア人はキリスト教徒、アルバニア人はオスマン帝国(イスラム圏) … 第二次世界大戦後に盛んになった日本の学生運動。 過激なイメージが強いですが、本来はどういう目的で行われていたのでしょうか?また、その時代背景は何があったのでしょうか? 今回はそんな若い世代 … 日韓の輸出規制はなぜ?わかりやすく原因と理由、影響を解説。 に 【日韓問題】WTOでの韓国の主張と海外の反応を簡単に説明。 | aiaiブログ より; 日韓の輸出規制はなぜ?わかりやすく原因と理由、影響を解説。 に 日本不買運動とは。原因と解決策は? こんにちは! Ryoです。 2019年は アイルランドにとって 独立戦争から100周年の記念の年。 でも 1世紀近くの長いあいだ みんなが苦しんできたのが 北アイルランド問題。 くわしく調べると複雑だけど ブレ … 独裁国家の一覧として、トルクメニスタン、ベラルーシ、北朝鮮など20ヵ国をまとめて紹介していきます。それぞれの国に関する基本情報や、独裁体制とされる理由などを見ていきましょう。 日本が承認している国が世界には196ヵ国(2018... マンハッタン計画は、第二次世界大戦中にアメリカが主導した原子爆弾の開発・製造プロジェクト。この結果、日本の広島や長崎に対して核兵器が使われることになりました。 学校で歴史を勉強したり、近代日本に関するドキュメンタリーを観たりす... 都市国家とはどういった国家なのか?他の国家とは何が違うのか?かつて世界に存在した都市国家の例や、現代社会で確認することが出来るシンガポールを始めとした、今日の世界に存在する都市国家までを見ていきましょう。 世界史や国際政治など... イラク戦争とは一体なんなのか?その原因や目的をわかりやすく解説していきます。未だに議論が続き、中東の混乱を引き起こしたイラク戦争について理解を深めていきましょう。 2003年から始まったイラク戦争は、過去100年間のアメリアの外交... シリア内戦(シリア騒乱)について見ていきます。内戦の原因から難民の状況などを確認して、シリア史上未曾有と言われる紛争についての理解を深めていきましょう。 シリア内戦(シリア騒乱)は、2011年から現在(2018年9月)まで続く... 中国軍(中国人民解放軍)について基本的な知識から、なぜ脅威となりつつあるのかを示す5つの兆候までを紹介し解説していきます。 世界最大の人口を誇り、過去数十年に渡って圧倒的な経済成長を見せてきた中国は、現在、世界No.2の経済大... スペインに移住・住むための11の知識|食事・住宅・スペイン人など生活する上で知っておきたいこと, (当時はユーゴスラビア末期で、モンテネグロ共和国とセルビア共和国のみから成る連邦共和国だった), スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア), (※セルビア系のテレビ局本社が爆破されたり、民間人も命を落としいることから、物議を醸し出した), コソボ紛争|原因などをわかりやすく解説!多くの難民や死傷者が出た悲惨な紛争のまとめ, シリア内戦とは?原因や難民状況を追っていく。シリア騒乱と呼ばれる未曾有の紛争について, コソボの独立を求めるアルバニア人の武装勢力「コソボ解放軍(KLA)」とユーゴスラビア軍, ユーゴスラビア軍とアルバニア人勢力の戦いに加えて、NATOが空爆でアルバニア人勢力を支援したアライド・フォース作戦。セルビア系が狙う民族浄化などの不正・残虐行為を阻止するために行われた. 関税という言葉は多くの人が聞いたことがあるでしょう。同時に輸入、貿易などのイメージが浮かぶかと思いますが、関税がどのような税金なのか、その仕組みまで知っているでしょうか? 話題の関税について、とにかく分かりやすく解説していきます。 日中戦争とは1937年から1945年までの間、続いた日本と中国による戦争です。 1937年の盧溝橋事件をきっかけに戦争は起こってしまいます。 この戦争は徐々に泥沼化の状態となっていき、これをきっかけとして太平洋戦争を引き起こすなど日本と中国に多大な影響を及ぼしました。 コソボ紛争をわかりやすく解説してきます。原因や歴史的な経過を追うと同時に、いつくかの抑えておきたい知識までを見ていきましょう。1998年から1999年にかけて旧ユーゴスラビアの一地域「コソボ」を巡って起きたコソボ紛争は、同地域に住んでいた人 出典:https://www.google.co.jp/imgres? 「冷戦」 の意味を調べると、 次のように書かれています。 「冷戦」とは、簡単に言うと 「アメリカとソ連の間接的な争い」のことです。 一般的な戦争は、 お互いが直接争って温かい血を流すので、 「熱い戦争(hot war)」と呼びます。 しかし、「冷戦」は アメリカとソ連が武力によって 直接戦ったわけではありません。 戦争が起こりそうな雰囲気はあったものの、 お互いがにらみあうような「こう着状態」でした。 そのため、 「 … ユーゴスラビア紛争をわかりやすくまとめる!原因は何だったのか... 6,752件のビュー; 兄者弟者 「バイオハザード:ザ・ファイナル」のCMに登場!!... 5,588件のビュー 【IPPONグランプリ】宙宙宙ってwwwくっきーの回答にハマ... 4,910件のビュー ご存知、朝鮮半島を二分した「朝鮮戦争」。 この戦争の原因は、第2次世界大戦終了後に、朝鮮半島を欲しがったアメリカとソ連(ロシア)のケンカです。いわゆる「冷戦」ってやつですね! アメリカは南の韓国を応援し、ソ連は北の北朝鮮を応援する。 1950年に始まった朝鮮戦争、結局勝負はどっちつかずで3年後の1953年7月には「休戦」という形で和解し、韓国と北朝鮮の間で新たに「38度線」という国境線を引き、一旦は解決となりました。 でも、あくまで今現在も「休戦中」です。38度線には、常に … 主な原因は政治的な紛争や内戦、人種差別、宗教問題、自然災害などがあります。 難民問題は各国の状況によって異なるため、世界の難民の現状と生活についてわかりやすく解説します 【国際情勢】シリア情勢をわかりやすく説明する - Naver まと 【ホンシェルジュ】 2003年にアメリカをはじめとする連合軍がイラクへ武力行使をすることで始まったイラク戦争。開戦の際に多くの疑問が持たれましたが、あなたはどれくらいご存知でしょうか?今だからこそ知っておきたいイラク戦争を関連書籍をご紹介するとともに解説していきます。 世界には様々な理由により各地で紛争が起こっており、その影には、多くの子どもたちが犠牲になっています。彼らは兵士として戦闘と他者の殺害を強要されることもあり、心と身体に大きな影響を受けるのです。, さらに紛争終結後も満足のいく教育の機会が与えられず、ふとしたことで暴力的な思想に染まってしまう恐れもあります。こうした子どもたちの状況を改善するためには、紛争の原因を把握し、解決に向けた取り組みや被害を受けている人への支援が必要です。, 今回は世界で起こっている紛争に対しどのような解決策が必要かなどをふまえ、私たちにできる支援について考えます。, 30秒で終わる簡単なアンケートに答えると、「紛争で苦しむ人々を支える」活動している方々・団体に、本サイト運営会社のgooddo(株)から支援金として10円をお届けしています!, 設問数はたったの3問で、個人情報の入力は不要。あなたに負担はかかりません。年間50万人が参加している無料支援に、あなたも参加しませんか?, 紛争とは、経済問題から宗教や文化の違い、民族間の争い、集団心理や環境などで起こる争いが含まれます。, また、内戦は様々なことが要因となり発生する武力行使による対立が、ある国の領域内で行われることを指すことが多いです。, 紛争が起こる原因は実に様々です。権力者の心理的な側面から物理的な事情、宗教上の対立などあらゆる要素が複雑に絡み合って起こるのが紛争です。, そして、何年も何十年も解決せずに紛争状態が長引いている地域では多くの死亡者が出ています。, アメリカの同時多発テロで世界的に知られているビン=ラディンなどが関わっているのがアフガニスタン紛争です。, アフガニスタン紛争の始まりとなったのは、1978年当時の政権であるアフガニスタン人民民主党に対する武力蜂起といわれています。, そして政権に対する武力抵抗が国中に広がり、人民民主党が当時のソビエトに軍事介入を要請しました。, そしてソビエトの介入があり、大統領が殺害され、政権争いと武力衝突は激化していきます。, ソビエトの介入に対立するように抵抗勢力に対するアメリカの支援があるなど、アフガニスタン紛争を介した当時の強国の間接的な対立も存在しました。, その後、国連によるソビエト軍の撤退についての決議があり、1989年にソビエト軍はアフガニスタンから撤退しています。, しかしアフガニスタン紛争はソビエト軍の撤退で終わったわけではありませんでした。軍が撤退したものの、ソビエトによるアフガニスタン人民民主党への援助は続いており、それに対抗するように抵抗勢力へのアメリカの援助も続いていたためです。, そのためアフガニスタンでは対立する勢力の武力衝突が依然として続きます。その中でタリバーン政権の台頭があり、2001年にはアメリカ同時多発テロが起こりました。, その後はアメリカ軍が集団的自衛権の行為を行使し、アフガニスタン紛争はアフガニスタン戦争へと変わっていきました。現在は戦争こそ一応の終結をみていますが、断続的な武力衝突は続いています。, (出典:外務省公式サイト「アフガニスタンの現状と問題」)(出典:外務省公式サイト「アフガニスタン・イスラム共和国基礎データ」)(出典:外務省公式サイト「アフガニスタン紛争のダイナミズム」,2018), 政府に対し国民の不満が溜まっており、2011年に起こった大衆による抗議運動「アラブの春」を受け、民主化運動への契機が高まっていきます。, そして政権から虐げられていたスンニ派を中心とした抗議運動はシリア全土に広がり、シーア派を主とするアサド政権政府軍とスンニ派を主とする反政府軍との間で内戦へと発展したのです。, 反政府軍が近隣国から様々な支援を受けることで武装蜂起を行い、自由シリア軍を結成したことで両者の対立は激化していきます。, さらに自由シリア軍は拡大を続け、内部でも意見がわかれヌスラ戦線という過激派組織も独立。アサド政権もロシアやイランの後ろ盾を受け、反撃を行いますが、政府軍側のシーア派過激組織ヒズボラも参戦し、内戦はさらに激化。, ここにイスラム国が勢力を拡大する目的で介入し、アサド政権政府軍、反政府軍、イスラム国という三つ巴の戦いとなり、内戦を泥沼化させることとなりました。, やがてイスラム国は崩壊し、再び政府軍と反政府軍の戦いの形になりますが、同時に政府軍を支持するロシアと反政府軍を支持するアメリカとの対立構図へとシフトしてしまったのです。, 近年ではアメリカでトランプ大統領が就任後、在シリア米軍の撤退を示唆していましたが、ロシアの実質的なシリア支配へと繋がるとの懸念があったため、アメリカ軍は駐留を継続。, しかし2018年の暮れにはイスラム国の掃討が完了したとして、アメリカ軍が撤退することと、シリアへの直接介入は終わりを迎えましたが、2019年4月以降も激しい空爆などが行われている状態です。, クルド対トルコ紛争は、トルコ政府とクルド人の武力衝突です。対立の根底にあるのは、トルコ人とクルド人それぞれの政治思想や民族のあり方などの考えの違いがあります。, クルド人は「国を持たない民族」とも呼ばれており、トルコではクルド人の問題が内政上の課題です。2016年にはクルド労働者党(PKK)による自爆テロ事件などが起き、トルコ治安当局はPKKに対する掃討作戦を行いました。, イラク北部のクルディスタン地域内に2020年6月14日以降、トルコ軍はPKK関連拠点へ軍事行動を行いました。航空部隊と地上部隊による攻撃を組み合わせているようです。, (出典:外務省「トルコ共和国(Republic of Turkey)基礎データ」,2019)(出典:外務省「イラク:トルコ軍によるイラク国内のPKK拠点空爆」,2020), リビア内戦には2011年に起こった当時のカダフィ政権に対するデモをきっかけとした政権打倒の武力闘争と、2014年から現在に至るまで続いている各種政府とイスラム国系の武装勢力が乱立するものがあります。, リビア内戦の問題は、民主的な手法で選ばれた「トリポリ政府(西部)」と国際的に認知された「トブルク政府(東部)」という形で、部族社会に根ざす複数の政府勢力があります。これらの政治勢力に加え、国連を中心とした仲介努力により実現した国民統一政府の賛成力が併存する状況が続いているのです。, 2018年8月にはトリポリで民兵による武力衝突により、市民が死傷者として出たとされています。今後はリビアや周辺地域の安定のためにも、正統性を持つことが期待されています。, 2011年2月、「アラブの春」の煽りを受けて反政府デモが発生し、それに端を発する形でイエメンの国内に混乱が生じました。その混乱の中、33年間にわたり国を支配してきたサーレハ大統領(当時)が辞任。その後ハーディ新大統領が政権移行プロセスに取り組みましたが、2014年9月に反政府武装勢力のホーシー派がイエメンの首都サヌアを占拠し政権掌握を宣言しました。, ハーディ大統領は首都を追われイエメン南部のアデンやサウジアラビアに退避。ハーディ大統領からの要請により、2015年3月にアラブ連合軍がイエメンへの軍事介入を開始したことで内戦状態が続いています。, 2018年6月にはアラブ連合軍がホデイダ奪還作戦を開始。ホデイダ市はイエメン国内有数の港を有するため、戦闘が継続することで物資供給の停滞し「世界最悪の人道危機」と言われるほど危険な状況が続いています。, そのため、2020年時点でもイエメンの人々は何らかの人道支援を必要としているとされています。, 世界で起こっている紛争問題、どこの国や地域で起こっている?国と原因を一覧で見てみよう, 2020年現在も、世界では紛争が続いています。そして、紛争では多くの子どもが犠牲になるのです。ここでは紛争地域における子どもの苦難を解説します。, 紛争地域でとりわけ問題になるのが子ども兵士です。子どもたちは誘拐などにより半ば強制的に戦闘員として紛争に参加させられます。, 子どもは価値観や倫理観が未熟な状態にあるため洗脳に近しいような刷り込み教育を行いやすく、兵士として使いやすいのです。様々な国で多くの子どもたちが、紛争の武装勢力として使われています。, 紛争によって食料が不足すると、子どもが栄養失調の状態になります。そして抵抗力が弱まり、感染症などで命を落とすのです。, 病気にならないとしても、生命活動を維持するだけのエネルギーを摂取することができず餓死してしまう場合もあります。, さらに対立勢力に対する性的虐待や暴力が子どもに及ぶ場合もあります。紛争の影響がある地域では、女の子を強姦したり強制的に結婚するなどの行為も行われています。, そもそも紛争地域では教育の体制そのものが整っていない場合が多いため、紛争終結後であっても満足に教育を受けることのできる子どもはほんの一部です。ユニセフによれば自然災害や紛争のある地域の15歳から17歳の子どもの5人に1人は、これまで一度も学校に通っておらず、5人に2人は小学校を修了していないとされています。, 教育は、子どもたちが将来仕事に就いたり収入を得るため、また様々な危険を避けるためにも重要です。紛争により教育の機会が奪われることは子どもたちの未来にも影響を残すのです。, (出典:ユニセフ「世界の就学状況報告書発表 学校に通っていない子ども3億300万人」,2018), 紛争地域の人々に対して、どのような支援が行われているのでしょうか。そのうちの一つに物資の支援が挙げられます。2020年には新型コロナウイルスの影響から医療従事者のためのエプロン、ブーツ、フェイスマスク、手袋などの個人保護具(PPE)といった物資支援を行いました。, 武力を用いた戦闘や爆撃が多発する紛争地域では、まずは人が生きるために必要な最低限の物資を供給する必要があります。, その上で教育についての支援を行い、長期的に紛争を防止する仕組みを作ることが求められています。, (出典:ユニセフ「イエメン 紛争とCOVID-19、二重の危機回避を個人防護具など、ユニセフの支援物資が到着」,2018), 現地では様々な団体や組織が支援を行っており、私たちは国際機関などに寄付することで活動をサポートすることができます。, 寄付には毎月同額の寄付額を継続的に支払う方法や、思い立ったときに任意の金額を寄付する方法があります。, 金額も数百円の少額から数万円単位の額まで様々な選択肢から選ぶことが可能なため、無理なく、継続して行える方法を選択すると良いでしょう。, 紛争地域に暮らす人々に対し、生きるために最低限必要な物資の支援や長期的に紛争を防止する仕組みを作るための教育支援が求められています。, お願いしたいのは、選択肢から選ぶだけの3つの質問にお答えいただくだけです。お金はもちろん、個人情報や何かの登録も一切不要で、30秒あれば終わります。, それだけで、紛争で苦しむ人々を支える活動をしている方々・団体に本サイトの運営会社であるgooddo(株)から支援金として10円をお届けします。, グループメディア:BITDAYS | DELIGHTmedia | GANMA!ニュース. アフリカはかつてヨーロッパの植民地として支配され、独立はできたものの不安定な情勢から内戦や紛争が勃発し、世界の紛争多発地域と見られてきました。 近年は徐々に終息を見せ、紛争の数こそ少なくなりましたが、中央アフリカやコンゴ、南スーダンなど紛争を行っている地域やさらに激化している地域もあり、多くの被害が出てしまっているのが現状です。 2005年時点では、南北スーダンで死者約50万人、難民や避難民だ … 日本では消費税率10%への引き上げが実施され景気の冷え込みが不安視される中、世界では米中貿易戦争が勃発しました。 この2大国間に、今何が起こっているのでしょう? そして、米中貿易戦争は世界と日本経済にどのような影響を与えるのでしょうか? 当記事では二大国の貿易戦争が世界と日本に与える影響に迫ります。 ルワンダ虐殺(ルワンダジェノサイド)についてわかりやすく事件の原因や流れを見ていきます。ルワンダ内戦から続いた歴史的な残虐事件について理解を深めていきましょう。20世紀にはジェノサイドと言われる大虐殺が世界各地で起こりましたが、東アフリカの コソボ紛争をわかりやすく解説してきます。原因や歴史的な経過を追うと同時に、いつくかの抑えておきたい知識までを見ていきましょう。, 1998年から1999年にかけて旧ユーゴスラビアの一地域「コソボ」を巡って起きたコソボ紛争は、同地域に住んでいた人の多くが命を起こし、また生き残った人間も難民になるなど、短期間にも関わらず、凄惨な結果を招いた戦争でした。, また、北大西洋条約機構(NATO)が介入することで、1999年には日本でも各局がテレビ中継するなど、他国の一般市民からも大きな注目を集めることになりました。, 紛争が起こってしまった原因を歴史的な流れを追いながら確認し、いくつかのポイントを抑えていきながら、この悲惨な紛争について理解を深めていきましょう。, コソボ紛争とは、1998年2月後半から1999年6月11日まで、ヨーロッパ南東部バルカン半島のコソボで起こった武力衝突のこと。, 旧ユーゴスラビアにおいて元々、自治州で最貧国地域であったコソボの独立を巡って起こった紛争で、同期間の中には以下2つの衝突が含まれます。, コソボ紛争が起こった原因を中心に、コソボ独立までの動きを以下にわかりやすく解説していきたいと思います。, まず、コソボ紛争の舞台となったコソボについて、その場所やユーゴスラビア内での立ち位置を確認していくことから始めていきましょう。, コソボは地図上で見ると分かる通り、最盛期には六カ国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)から構成された旧ユーゴスラビアの南部にある地域。, 西暦6~7世紀頃にスラブ人の入植が始まり、それ以降この一体は南スラブ人が居住する地域となっていましたが、17世紀から18世紀頃に当時の政治的な理由から、オスマン帝国によってアルバニア人がコソボに当たる地域に入植させられます。, そして、1912年にアルバニアが独立を宣言した時には、一時コソボも南に隣接するアルバニアの国土に含まれましたが、当時のヨーロッパ列強の介入により、1913年の国境画定で北に隣接するセルビア王国に組み込まれてしまったのです。, そのため、南スラブ人国家が集まってユーゴスラビアが構成された時も、コソボに住む90%近くの人間はアルバニア系でした。, 加えて、コソボの人々の多くはイスラム教を信仰している反面、セルビア人はそのほとんどがキリスト教の正教徒です。, 結果、コソボでは他のスラブ系住民達の地域とは違う文化や宗教が深く根付いており、同じ国にありながらも、コソボのアルバニア人とセルビア人は全く異なる人々だと言って良い状況でした。, このような状況の中で1974年に、コソボは一旦はユーゴスラビアの中で自治権が認められますが、セルビア共和国憲法が1989年に修正された際、コソボの自治権が剥奪されてしまったのです。, これは主に、セルビアはコソボを古くから自らの土地と捉えており、そこに住むアルバニア系イスラム教徒を、数世紀前にオスマン帝国が統治していた頃の名残だとしか考えていなかったからです。, 1974年に自治権が認められてから短期的には、セルビアの一部でありながらもコソボとセルビアの間に大きな問題は起こりませんでした。, これは、1963年にユーゴスラビアの終身大統領となったヨシップ・ブロズ・チトーが生きている間であり、その理由というのも、コソボへ自治権を持たせることを決めたのはチトー本人だったから。, しかし、1980年にチトーが亡くなると、セルビア系の国粋主義者スロボダン・ミロシェヴィッチがユーゴスラビアの統治者として台頭し、同時にクロアチアやボスニアなどの共和国も独立を宣言し始めたことで、1981年にはアルバニア系住民の暴動が発生します。, 結果、一旦は静かになっていたアルバニア人とセルビア人の対立が深まり、1989年のミロシェビッチによるコソボの自治権剥奪に繋がっていくのです。, コソボが自治権を剥奪されてから1998年にコソボ紛争が起こるまで、コソボ側はミロシェヴィッチと交渉をしてなんとか自治権を回復しようと努力しますが、一向に状況は変わりませんでした。, 結果、コソボ側(アルバニア系住民達)は、独立を目的として武力組織「コソボ解放軍(KLA)」を立ち上げ、活動を活発にしていきます。, そんな中で、セルビア側はKLAを一掃するための掃討作戦を1998年2月後半に開始、ここにいわゆる「コソボ紛争」が開始されることになったのです。, コソボ解放軍(KLA)がコソボ独立のための行動を起こし始め、セルビア軍との衝突が増えていくと、コソボ市民も犠牲になり始め、セルビアは西欧諸国から批判されます。, しかし、セルビア側はその批判にも関わらず、アルバニア系コソボ人25万人を初冬の凍える森に追放します。, これはコソボ戦争における最初の民族浄化と考えられており、その後も止まることを知りませんでした。, その結果、同地域周辺に配備されていたNATOの航空部隊司令官たちは、コソボを支援するための空爆指示を受け、NATOによるアルバニア人勢力の支援が始まります。, 数ヶ月の間、NATOによる空爆、セルビア軍パイロットとのドッグファイト、軍事基地への爆撃などが行われました(※セルビア系のテレビ局本社が爆破されたり、民間人も命を落としいることから、物議を醸し出した)。, 加えて、同じ時期、当時のイギリス首相トニー・ブレアは、NATOの地上部隊を動員すること、NATOが拒否した場合は、英国陸軍の大部分を平和維持軍としてコソボに送り込むことを表明しました。, これは平和維持軍に被害が及んだ場合、NATOの条項にある自衛権を発動して武力介入し、最終的にスロボダン・ミロシェヴィッチを排除することを意味していたのです。, これによってミロシェヴィッチは、コソボ人との交渉を行うことを表明。クマノヴォ合意(Kumanovo Agreement)が締結され、1999年6月に戦争が終結したのです。, ちなみに、西欧諸国が動くとなれば必ずその動きに反発するように行動を起こすロシアは、実は当時も動いていました。, セルビアとの歴史的な結びつきを重視する立場を取っており、また、セルビア軍に志願したロシア兵もいるほどでした。, しかし、当時のロシアはソ連解体後に行った政策によって、経済や社会が不安定な時期であり、西欧諸国に喧嘩を売るようなことになれば、それ以上は支持しないと裏でセルビア側へ伝え、また、ロシア政府はミロセヴィッチの強行路線を変えさせようとしていたと言われています。, コソボ紛争が起きた原因から、コソボ独立までの流れをわかりやすくダイジェストで見てきましたが、ここからは、この紛争についてさらに理解するためにも、抑えておきたいいくつかの知識を紹介していきます。, 上でコソボ紛争が起こった原因に関して歴史的な流れで見てきましたが、実は、コソボ紛争の原因の一つとして他にも抑えておきたいのが、コソボはセルビア人にとって「聖地」であるという点。, コソボ紛争以前には、中世に建てられた由緒ある聖堂や修道院など、セルビア正教徒にとっては大切な文化的遺産が数多く存在しており、セルビア正教の聖地だったことが、セルビア側がコソボを諦めきれない理由の一つだったのです。, ちなみに、セルビア正教にとって大切な文化遺産の多くは、コソボ紛争の時に破壊されてしまったとされます。, 国際社会は当初、アルバニア人とセルビア人の緊張関係がエスカレートしている事実に対して、何も対策を取りませんでした。, コソボのアルバニア系住民はコソボ解放軍(KLA)を1990年代初頭に組織した後、セルビアの警察、政治家を襲撃し始め、1998年までの間、全面的な暴動を起こし、結果として悲惨な戦争へと発展してしまったのです。, ユーゴスラビア軍とセルビア軍は、コソボ紛争の期間中、民族浄化運動を継続的に行っていました。, ユーゴスラビア政府は村々を破壊し、人々に家から立ち退くよう圧力をかけるだけでなく、女性へのレイプや大虐殺を行ったのです。, その結果、1999年5月末までにおよそ100万人弱の人々が家を追われ、難民となってしまいました。, また、その難民達の姿が当時のメディアで映し出されたことが、西欧諸国によるコソボ紛争への介入を決める大きな動機になったとも言われます。, 1999年にフランスに於いて、コソボとセルビアの代表者による和平交渉(ランブイエ和平交渉)が始まりました。, それに応戦する形で、NATOは政府の建物やインフラ施設の破壊を主なターゲットとした、セルビアに対する空爆が始まったわけですが、その中では民間人の死亡や、難民のような形で近隣諸国へセルビア人が流出するようなことも起こってしまいました。, 1999年6月にNATOとユーゴスラビアは、コソボ紛争を終結させる為の和平協定を結びます。, しかし残念なことに、コソボにアルバニア系住民が戻った後、民族間の緊張状態は21世紀になっても続き、例えば2004年3月、コソボ地域全体で反セルビア勢による暴動が起こった結果、20人が死亡、4000人以上のセルビア人とその他の少数民族達が避難する事態になっています。, コソボが独立を宣言した後、ほとんどのヨーロッパ諸国はコソボを独立国として認知しましたが、セルビアの一地方が反乱を起こしていると捉え続けた国々も多かったのです。, 特に中国とロシアは、コソボを国として認識することを拒否しており、加えてセルビア人たちは、未だにコソボを独立国として認知しておらず、代わりにセルビアの完全なる自治区として、コソボ政府が地方自治を行なっているとしています。, コソボ紛争について、歴史を追いながら、その原因や流れまでをわかりやすく見てきました。, 総じてコソボ紛争とは、ヨーロッパに於ける最も混沌とした紛争の一つであり、その地域に住む人にとって、忘れる事の出来ない痕跡を残しました。, この紛争は「大虐殺(ジェノサイド)」や「人道に対する罪」と言った言葉を造り出しただけではなく、NATOによる介入や空爆など、大きな論争を引き起こす原因となった事件だったのです。, 当サイトは当サイトのメイン管理人である「ハリマン」が、内向きになりつつある日本人をもう少しだけ外向きにしたいという思いで運営しています。 さらに詳しくは下のホームボタンをクリックしてください。. 21世紀のイエメンは 「中東でもっとも貧しい国」 だそうです。 むかしは豊かな国だったので 「幸福なアラビア」と呼ばれたり 貿易がさかんだったりしたようです。 イエメンでは 1978年から独裁政権が続いてたけど 2010年12月に 北アフリカのチュニジアで始まった 「アラブの春」と呼ばれる 反政府デモが広がったので 独裁が終わりました。 ただし 独裁が終わったと言っても 「独裁者の大統領が 副大統領に権利をわたしただけ」。 いちおう選挙はしたけど 立候補したのは 権利をもらった もとの副大統領 … 中東戦争をわかりやすく説明します!今も紛争が絶えないのはなぜ?まとめ. 500円でおつりがくる「岩波ブックレット」シリーズの新刊で、コソボ紛争の背景をとてもわかりやすく解説しています。 特にアルバニア人とイスラムの関係や、対トルコ史に関する記述など『うわっ、パク … カシミール紛争(英語: Kashmir conflict ヒンディー語: कश्मीर विवाद 翻字: kshmir vivaad)は、カシミールをめぐって、インド、中華人民共和国、およびパキスタンの3カ国が領有権を主張している地域紛争 … まずはそもそものお話。 「カシミール紛争」とは何なのでしょうか? カシミール紛争とは、パキスタン北部とインド北西部にまたがるカシミール地方の領有権をめぐって、インド、パキスタン、および中国の3カ国が領有権を主張している地域紛争のことです。 そのなかでも、インドとパキスタン間でのカシミール地方を巡る争いは激しく、現在でも軍事的緊張が続いています。 過去、1947年、1965年、1971年に三度の戦争、いわ … 東大紛争とは、東京大学で1968年から1969年の間続いた大学紛争で、東大闘争とも呼ばれています。 医学部の処分問題や、大学運営の民主化などの問題に対して、学部生や大学院生と当局の間で争われました。 アフガニスタン紛争(アフガニスタンふんそう)とは、近代以降のアフガニスタンを舞台に起こった様々な戦闘の総称。 この項目では、 1978年 以降、断続的に起こっている戦いを扱う。
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