「鶴丸国永 刀チャーム」をプレゼント!このチャンスをぜひお見逃しなく…! 「GOOD SMILE ONLINE SHOP」ご予約受付期間 2015年10月29日(木)12:00~12月9日(水)21:00まで ※「鶴丸国永 刀チャーム」は商品と一緒に発送されます。. 毛利 輝元(もうり てるもと)は、戦国時代後期(安土桃山時代)から江戸時代前期にかけての武将・大名。安芸の戦国大名・毛利氏の14代当主。, 豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦いの戦後処理により、秀就を初代として数えているため)でもある。, 天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として、毛利氏の居城・安芸吉田郡山城で誕生した[1]。母の尾崎局は大内氏の重臣で長門守護代の内藤興盛の娘であり、大内義隆の養女でもあった[3]。幼名は幸鶴丸(こうつるまる)と名付けられた[1]。, 幸鶴丸が誕生した天文22年は、天文19年の井上元兼とその一族の討伐を契機に家中掟法の整備、それによる家中統制が行われ、毛利氏の「国家」が成立していた[4]。また、陶晴賢が主君・義隆を討った大寧寺の変を経て、祖父・毛利元就の権力基盤が強化された後でもあった[4]。, 天文23年、防芸引分(大内氏・陶氏との断交)が行われ、翌年には厳島の戦いで陶晴賢を討った。その後、防長経略も行われ、毛利氏は大内氏と陶氏を滅ぼした。さらに尼子晴久を惣領とする尼子氏との戦いも行われ、石見国で対峙が続いた。それゆえ、父の隆元は断続的に出陣を繰り返し、幸鶴丸のもとに落ち着くことはなかった[5]。, 永禄6年(1563年)8月4日、当主である父・隆元が尼子攻めのさなか、安芸佐々部で急死した[4]。そのため、幸鶴丸が11歳にして家督を継承するが、元就が後見して政治・軍事を執行した。この時期、安堵状・宛行状・官途状・加官状類は元就から発されており、幸鶴丸は形式的には家督を継承したものの、その権限は保留状態にあった[6]。, 永禄8年(1565年)2月16日、幸鶴丸は13歳のとき、吉田郡山城で元服し、室町幕府の13代将軍・足利義輝より「輝」の偏諱を受けて、輝元と名乗った[7][8]。もっとも、輝元が将軍の偏諱を受けることができたのは元就が幕府に働きかけたからであり、永禄7年12月以前から元服の準備が進められ、同年半ばから幸鶴丸の名を据えた花押の文書がこの頃から増加したのもその一環であったと考えられる[9]。, これにより、輝元は事実上の当主となり、幸鶴期には全く発給していなかった官途状・加官状類が輝元の名でも発給されるようになり、輝元自身の当主としての権限も拡大された[10]。だが、輝元と元就の連署の書状もあり、元就の後見が必要となる場面もあった[11]。, 永禄8年3月、輝元は毛利氏による尼子攻めに出陣し、4月の尼子氏の本拠地・月山富田城への総攻めで初陣を飾る(月山富田城の戦い)[12]。この戦いにより、永禄9年(1566年)11月に尼子氏の当主・尼子義久が降伏し、毛利氏にとって長年の宿敵たる尼子氏は滅亡した[13]。その後、永禄10年(1567年)2月に輝元は吉田郡山城へ凱旋した[13]。, 他方、元就自身は二頭体制に移行後、輝元の当主権限が拡大されるにつれ徐々に権限を移行し、輝元の初陣を機に隠居を考えていた[13]。だが、同年に輝元は隠居しようとする元就に隠居しないように懇願し、その隠居を断念させた[14]。15歳の輝元には毛利氏の領国を円滑に運営させてゆく自信がなく、輝元の名で領主たちの盟主たりうることは困難であった[14]。そのため、元就が死没するまで、輝元と元就の二頭政治体制が続くことになる[15]。また、叔父の吉川元春や小早川隆景の2人、毛利氏庶家筆頭の福原貞俊、口羽通良を合わせた4人、いわゆる「御四人」が輝元の政務を補佐した[16]。, 永禄12年(1569年)6月、尼子勝久・山中幸盛らが尼子氏の残党が蜂起し、但馬の山名祐豊の支援を受け、毛利氏の支配する出雲に侵入した[17][18][19]。このとき、毛利氏の主力は豊後の大友氏との戦闘のため、九州北部に展開中であり、それを狙った蜂起であった。尼子氏の残党が出雲に侵入すると、尼子氏の旧臣が集結し、7月中旬には月山富田城を攻撃した。, 10月、旧主家・大内氏の残党である大内輝弘が大友氏の援軍を得て、周防に侵入した[18]。これには大内氏の遺臣らも加わり一気に勢力が拡大し、毛利氏の領国支配を乱すこととなった(大内輝弘の乱)[18]。, 輝弘の侵入は6月の尼子氏の出雲侵入に呼応したものであり、大友氏の策略によるものであった。大友氏とは永禄7年に幕府の仲介で和睦していたが、永禄9年になると大友氏が毛利氏に属する筑前の有力国人・高橋鑑種への攻撃が始まった[20]。その後、同じ筑前の有力国人・立花鑑載が毛利氏に付き、それに対して大友氏が立花氏の居城・立花山城を攻め落とすなど、筑前では毛利氏と大友氏の攻防が続いていた(多々良浜の戦い)[20]。, 毛利氏は輝弘ら大内氏残党の侵入に対処するため、九州に展開していた軍勢を撤退させ、同月のうちに輝弘ら大内残党を討伐した。だが、この大内輝弘の乱により、筑前の高橋鑑種は不利な状況となり、輝元・元就・元春・隆景の連署起請文では「毛利氏が鑑種を見捨てない」ことを約束していたにもかかわらずそれを反故にする形となり、翌年に降伏を余儀なくされた[20]。毛利氏は筑前国から勢力を失ったほか、豊前国でも門司城などの一部を残して拠点を失い、北九州における毛利氏の勢力は大きく減退した[21]。, 永禄13年(1570年)1月、輝元は大内輝弘の乱を鎮圧したのち、尼子氏残党軍を討伐するため、元春、隆景らとともに吉田郡山城より大軍を以て出陣した[22][23]。2月に布部山の戦いで勝利したのをはじめ、次々と尼子方を打ち破り、元亀2年(1571年)8月までに山陰から駆逐した[24]。だが、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏の残党勢力は再興を諦めず、毛利氏に対して抵抗を続けることとなる。, 永禄8年5月、輝元が元服して3ヶ月後、京では将軍・足利義輝が三好義継、三好三人衆、松永久通らに討たれる永禄の変が発生し、新たな動乱の火種となった。その後、義輝の弟・一条院覚慶は還俗して足利義昭を名乗り、永禄10年に聖護院門跡の道増を使者とし、輝元を後見する元就に支援を求めた[25]。この道増は近衛尚通の子で、さらに兄の近衛稙家は義輝の義父であり、義輝の使者として幾度か西国へ下向していた[25]。義昭は道増と元就の間に構築された外交ルートを活用することを考え、尼子氏を滅ぼして上洛が可能となった毛利氏を頼ろうとしていた[25]。, その後、永禄11年1月3日付で義昭から輝元に起請文が発せられたものの、元就は無用な戦線の拡大を望まず、出兵要請には応じなかった[26]。同様の要請は越後の上杉輝虎(謙信)、越前の朝倉義景、尾張の織田信長らにも行われたが、上杉輝虎は要請に難色を示し、朝倉義景も上洛に踏み切ろうとしなかった。結局、織田信長がこの要請に応じ、同年9月に義昭とともに上洛、義昭は朝廷から将軍に任命された。, 永禄12年半ば以降、毛利氏と織田氏の交流が始まった。同年6月に毛利氏の主力が九州北部に出兵中、但馬山名氏の支援を受けた尼子氏残党が出雲国に侵攻した際、信長は木下秀吉と坂井政尚と丹波へと出兵させて毛利氏を支援した[17]。また、信長は敵対する阿波・讃岐を支配する三好氏に対抗するため、毛利氏と大友氏を調停し、和睦させた[17]。, 永禄13年3月以降、輝元と信長の通交が始まるようになる。3月23日付の書状では、輝元が朝廷から右衛門督に任ぜられたことに関して、義昭の御内書が発給されたことを信長が祝している[27]。また、毛利氏が要請した浦上氏の攻撃に関して、信長が時期を見て出兵することを約束したことも記されている[27]。, 元亀2年4月、輝元が元就との連署で信長に書状を発している[27]。その内容は尼子氏に与して出雲・伯耆沿岸部に襲来した丹後・但馬の海上勢力に対して、将軍から停止命令を発給してほしいと要請したものである[27]。信長は将軍にこれを奏達し、信長自身も命令を発している[27]。, 同年6月、信長が輝元・元就宛に書状を送っている[28]。その内容は、阿波の三好氏家臣・篠原長房が備前国児玉に襲来し、将軍から停止命令を発給してもらえるように輝元・元就が要請したことに関して、長房は義昭や信長と敵対状況にあり、停止命令は効果がないというものであった[28]。, 同月14日、輝元を後見し続けてきた元就が死去した[23]。このとき、輝元は布部山の戦いの後も出雲に在陣中であったが、新山城攻撃を目前に「元就、危篤」の報が入り、元春にその場を任せ、隆景と共に元就の病床に駆けつけたほどであった。元就の死により、輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。, 9月、信長は元就死去の弔意を隆景宛ての書状で示している[29]。その書状には、「讃州表発珍重に候」とあり、毛利氏が三好氏の支配する分国へ出兵を図っていたことも記されている[29]。, 輝元ら毛利氏は大友氏、尼子氏、三好氏、浦上氏などに戦いを有利に進めるため、将軍の権威を利用し、その過程で信長を経由しなければならなかった[29]。信長も表面的には協力姿勢を見せ、毛利氏と織田氏には軍事同盟が成立していたが、信長自身のなかでは毛利氏への優先度は低かった[29]。, そのため、輝元は独力でこれらの敵を相手にせねばならなかった。輝元は元亀2年の元就没後すぐ、尼子勢を領内から駆逐し、また三好氏の分国へも侵攻した[29]。その後、元亀3年(1572年)には浦上氏とも和睦を成立させ、事実上屈服させた。これにより、毛利氏はその包囲網を瓦解させることに成功した[29]。, 永禄13年1月、信長は義昭に殿中御掟に追加の5ヶ条を加えた。その第一条は諸国の大名との交流に関して制限を加えるもので、義昭が御内書を出す場合には信長の添状を必要とするものであり、その効力に規制を加えるものであった[30]。これを機に信長と義昭の関係は悪化していった[30]。, 元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に殿中掟書の徹底を求めるため、意見17ヶ条を出した[31]。その中では義昭の御内書の無断発給を問題視し、信長は同盟関係にあった毛利氏との交流も監督下に置こうとした[31]。, 元亀4年(1573年)2月9日、輝元は義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に任ぜられ、同時に室町幕府の相伴衆ともなった[31]。これは輝元を与党に引き入れ、毛利氏の勢力を味方に引き入れようとする義昭の工作でもあった[31]。, 信長も義昭の動きに対抗して、輝元に接近し、毛利氏との同盟関係を維持しようとした[32]。義昭は信長に対抗するため、6月に毛利氏に対して兵糧料を要求したが、輝元は信長との関係から支援しなかった[32]。そして、7月18日に義昭は槇島城の戦いに敗れ、京から退去した。信長は輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している[32]。, 義昭追放後、輝元と信長の関係は続いた。そのため、9月7日付の御内書では、毛利氏が信長と懇意にしていることや、かつて毛利氏が将軍家を疎かにしないと提出した起請文が反故にされていることが批判されている[33]。他方、輝元が秀吉に充てた同日付の書状では、信長と義昭が和解し、義昭が京に帰還できるよう仲介を試みている[34]。, 輝元はまた、義昭と信長の和解を仲介する代わりに、但馬山名氏の支援を受けて反抗を続ける尼子氏残党に対抗するため、織田氏に但馬への侵攻を要請しており、信長も同意していた[34]。輝元にとってもまた、織田氏との同盟は領国を守るためには重要であり、義昭のために信長と敵対して上洛するより、信長の力を利用する道が最適であった[34]。他方、輝元は信長と義昭の仲介もあきらめておらず、両者の関係をとりもつため尽力した。, 天正元年11月、義昭が和泉の堺に落ち着くと、信長からは羽柴秀吉と朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊、林就長が派遣され、5日に双方の使者はともに義昭と面会し、信長と和解したうえでの帰京を説得した[35][36]。信長自身も義昭の帰京を認めていたが、義昭が信長からの人質を求めたため、交渉は決裂した[37]。, 輝元は義昭の処遇に関して、信長と義昭を仲介したが、それは決して室町幕府復興のために尽力したわけではなかった[37]。輝元が怖れていたのは、追放された義昭が毛利氏の領国に下向し、織田氏と全面戦争に突入することであった[37]。信長もまた、義昭の追放で畿内が動揺している今、輝元が義昭を奉じて織田氏との全面戦争に踏み切ることは避けたかったと考えられる[37]。, 輝元と信長の関係は依然として保たれていた。だが、信長は毛利氏との全面戦争は避けていたが、毛利氏を牽制するために重要な布石を打った。それは天正元年12月に浦上宗景に備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出したことであった[37]。, 浦上宗景は備前・播磨・美作に広域的権力を保持し、永禄末年から毛利氏と交戦していたが、元亀3年に毛利氏に従属する形で和睦していた[37]。それゆえ、浦上氏は毛利氏の従属下にあり、備前・播磨・美作は毛利氏の領国であると考えられていた[37]。だが、信長が宗景に備前・播磨・美作の統治を認めたことは、毛利氏にとっては想定外であった[37]。備前・播磨・美作が毛利氏の領国であるとするならば、所領の安堵は輝元の権限であり、信長にその権限はなく、信長の行為は備前・播磨・美作を織田氏の分国に加えるに等しい行為であった[37]。, 輝元と同様に、浦上宗景と対立する宇喜多直家にとっても、宗景の備前・播磨・美作における統治権を認めることはできなかった[38]。直家は永禄12年(1569年)以降、宗景の従属下を脱してほぼ対等の関係にあったが、信長の朱印状によって宗景の備前・播磨・美作の統治権を認めるということは、宗景の支配下に入ることを自ら認めることに他ならなかった[38]。, 天正2年(1574年)3月以降、宇喜多氏が浦上氏と敵対関係に入ると、5月に輝元は直家への支援を表明した[38]。輝元としては、宗景の毛利氏への態度が二転三転して不信感を募らせたことや、宇喜多氏が信長の勢力拡大に対する防潮堤の役割を果たすと考えたことが、直家への支援に繋がったと考えられる[38]。, 一方、宗景は輝元や直家に対抗するため、毛利氏と長らく敵対していた大友氏から支援を受け、さらに毛利氏から離反した備中の三村元親と連携しようとした[39]。三村氏は毛利氏に軍事的には従属していたものの、自立性の高い国人領主であった[39]。元親は父で先代の当主・家親を直家に殺害されており、輝元がその直家の支援に踏み切ったことが、毛利氏からの離反に繋がった[40]。また、元親は浦上氏を通じて信長から支援があると考えていた[40]。ただし、元親の叔父・親成は毛利方にとどまっており、毛利氏の調略があったと考えられている[41]。, 天正3年(1575年)6月、毛利氏は三村元親を攻め滅ぼし、同年9月には浦上宗景が居城・天神山城から追われて播磨に逃れ、この軍事衝突は毛利氏の勝利に終わった[41]。三村氏の旧領は毛利氏が直接的に支配する地域に入り、輝元は元就を上回る領域支配者となった[42]。, 他方、浦上氏や三村氏が期待していた信長から援軍は送られなかった[40]。信長は毛利氏を牽制したものの、毛利氏との断交はまだ早いと考えており、表面的に継続していた軍事同盟を維持する形を取った[41][43]。, 輝元は備前・播磨・美作を織田氏の領国に組み込もうとする信長の目論見を砕こうとしたが、信長との直接対決は望まず、あえて信長の朱印状発給に反発した直家を宗景と戦わせる道を選らんだ[44]。輝元は織田氏との軍事同盟を維持する道を選んだが[44]、その過程で毛利氏に長年付き従ってきた三村氏の離反もやむを得ないと考えていた推測される[41]。, とはいえ、浦上氏の領国が消え、宇喜多氏の領国を含む毛利氏の領国は織田氏の領国と直接境界を接することとなった[42]。これにより、信長との対決は目前に迫った[42]。, 但馬では、山名氏が尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏残党を支援し、毛利氏と敵対していた。かつては織田氏が毛利氏救援のために但馬に出兵したこともあった[17]。他方、信長は毛利氏にとって敵対勢力であるはずの尼子氏残党に対して、柴田勝家を通じて密かに接触を図っていた[45]。, 天正3年1月、輝元は尼子氏を支援していた但馬の山名祐豊・堯熙父子との同盟、いわゆる芸但同盟(芸但和睦)を成立させた[46]。一方、信長は隆景に宛てた7月6日付の書状で、表面的には芸但同盟の成立を認めているが、但馬を織田氏の分国にしようとしていた思惑を隠し切れていない部分もある[46]。, 但馬山名氏は、天正元年11月に因幡山名氏の山名豊国が毛利氏に従ったことにより、毛利氏に苦戦を強いられていた[46]。また、織田氏の勢力が但馬に浸透することで、山名氏の但馬国主としての地位や因幡に対する宗主権を否定されることを嫌ったと考えられている[47]。, 輝元も但馬を織田氏分国にしようとする信長の野心を察知し、天正2年以降に信長の介入で勃発した浦上氏と三村氏との争いや、加えて信長が尼子氏と接近しているのではないかという疑心もあり、あえて山名氏との同盟の成立に踏み切ったと考えられる[47]。芸但同盟の成立により、輝元は但馬を毛利氏の影響下に置いた[47]。とはいえ、芸但同盟成立後も但馬の田結庄氏ら尼子方国人は屈服せず、内乱が続いた[47]。, また、芸但同盟の成立により、尼子方の山中幸盛は山名氏の支援を受けることができなくなり、6月に因幡国の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点を移した[48]。これに対し、同月に輝元は元春と隆景に大軍を以て因幡に侵攻させ、8月に毛利軍は若桜鬼ヶ城を包囲したが、山陽方面で織田氏との緊張が高まったこともあって、10月に若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて撤退した[49][50]。, 天正4年(1576年)2月、将軍・足利義昭が紀伊国の畠山領を経て、毛利氏領国の備後国・鞆に動座してきた[51][52]。同月8日には義昭は元春に命じて、輝元に幕府の復興を依頼した[52]。だが、この動座は毛利氏に何一つ連絡なく行われたものであり、信長との同盟関係上、義昭の動座は避けなければならない事態であり、輝元はその対応に苦慮した[51][53]。, 輝元と信長は先の軍事衝突後、同盟を維持する方向で話を進めていた[54]。ところが、信長は播磨に逃れた浦上宗景を庇護して軍事支援を行い、先の衝突では浦上氏・三村氏の支援に消極的だったにもかかわらず、一転して方針を転換させ、毛利氏との軍事対決も辞さない態度を示した[55]。また、先の衝突が信長の予想に反して早期決着したため、信長は毛利氏と宇喜多氏の同盟を警戒するようになっていた[55]。さらに、天正3年以降、信長は毛利氏への包囲網を構築するため、近衛前久を九州に下向させ、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図ろうとしていた[56]。, 輝元と信長の関係は悪化していたとはいえ、表面上両者の同盟関係は継続されており、 作品は全て携帯でも見れます 同じような小説を簡単に作れます → 作成 この小説のブログパーツ. '鶴丸国永成り代わり(ブラック勘違い)は保護される。' is episode no. 作者名:あまふ | 作成日時:2017å¹´3月8日 13時. 士である。 pixiv内での三日月宗近タグの使用について pixiv内では、この刀をモチーフにした刀剣乱舞に登場するキャラクターのタグに用いられている。 刀について詳しくは→三日月 … 2018/04/26 - Pinterest で かみ本丸 さんのボード「鶴丸国永 驚かせ隊」を見てみましょう。。「刀剣乱舞 鶴丸国永, イラスト, つるいち」のアイデアをもっと見てみましょう。 デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 五条国永の用語解説 - ?-? 三成は襲撃を逃れ、伏見城内の自邸に逃げ込んだ後、輝元と連絡を取るようになった[140]。その間、三成は輝元に対して、大阪の喉元を抑えるため、尼崎方面に陣を構えるように要請している[141]。, 結局、この事件は三成が佐和山城で隠居することで解決したが、この処分の決定には輝元と、同じく五大老の一人・上杉景勝による調整があった[142]。無論、輝元と景勝の両名二人で決定できるわけではなく、五大老筆頭たる家康との調整も必要であった[142]。, 同月21日、輝元は家康と起請文を交わして、そのなかで家康を兄、輝元を弟とし、事実上屈服した[142]。だが、三成が失脚すると同時に、家康は自身と敵対する大名への勢力削減を狙い、その矛先は輝元にも向けられた[143]。, 4月、家康は三成が押し切った毛利氏所領に関する決定の見直しを行い、秀吉の遺命という大義名分を掲げ、秀元に長門及び周防の一部を分配するよう輝元に迫った[144]。だが、輝元は自己の権力強化を目指していたため、家康の強制とはいえ、それは受け入れられないことであった[144]。, 6月、秀元には長門、周防吉敷郡、安芸、周防、備後の旧穂井田元清領が与えられ、広家の所領をそのままに、隆景の遺領は輝元に返還されることになり、輝元・秀元・広家ともにこの案を受け入れた[145][146]。秀元に与えられた領地は伯耆・出雲・隠岐の三国の石高には若干及ばなかったが、秀元は父の遺領を引き継げたため納得し、毛利家中における秀元の処遇問題は解決した[147]。, しかし、毛利氏の内部には、家康が家中の問題に介入し、それを許したという遺恨が残った[147]。輝元自身もまた、自らを頂点とする一元的な支配体系の構築を目指してきただけあって、家中の問題を自分の思い通りにできなかったことを屈辱に感じた[147]。そして、輝元は家康の権力増大を食い止める必要性を感じ、それが翌年の決起に繋がっていった[147]。, 慶長5年(1600年)5月、家康は上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、これを秀頼に対する謀反として、会津へと出兵した[147]。家康が前年9月に大坂城に入城して以降、豊臣政権は家康が運営しており、輝元も景勝討伐に対して賛同せざるを得なかった[147]。とはいえ、輝元は景勝ととも石田三成襲撃事件の解決を2人で調整して以降、強く結びついていたと考えられている[143]。, 6月16日、家康は諸将を引き連れて会津へと出陣したが、輝元はその直前に広島へと向けて帰国した[147]。輝元は広家と恵瓊を出陣させたが、恵瓊は三成や大谷吉継と会談し、家康に対する決起を決めた[148]。, 7月、遂に三成が挙兵した。この時、三成は吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。輝元も恵瓊の説得を受けて、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。そして、輝元は7月12日付の書状で五奉行のうち前田玄以、増田長盛、長束正家から上坂を求められた[149]。, 7月15日、輝元は三奉行からの書状を受け取るとすぐ広島を出発し、7月19日には大坂城に入城した[150]。醍醐寺三宝院門跡・義演の記した日記『義演准后日記』7月19日条よると、その兵力は6万であったという[150]。それより2日前の17日、秀元は家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸を占拠しており、城内から家康の留守居役を追い出していた[150]。大坂の徳川氏勢力の動きを封じ、秀頼を手中に収めることは西軍決起の計画の最重要行動の一つであったが、これは輝元の判断なしで秀元が行える行為ではなく、輝元は17日の時点で在坂していたか、あるいは事前に秀元に対して指示を出していたことになる[150]。, 輝元は大坂城に入城後、諸将から西軍の総大将に推挙され、盟主として軍勢の指揮を執っていた[36]。だが、関ケ原の戦いの終結まで城から出陣することはなかった[151]。, 九州に向けては、当時広島城に滞在していた大友吉統を吉統の旧領地である豊後国に派遣した。大友軍は東軍の黒田家や細川家の九州留守居軍と戦闘を行う。また、西軍方の毛利吉成(もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)が伏見城の戦いでの損害により兵力を欠くこともあり、黒田方から防衛するためとして輝元の旧領であった豊前国の吉成領を占領する。, また、蜂須賀至鎮が東軍に参陣したことから、その父・家政の身柄を押さえ、蜂須賀家の領国阿波徳島城を毛利家の軍勢に占領させる。東軍方で領主不在であった伊予国の加藤嘉明領と藤堂高虎領では、故・小早川隆景の旧臣であった国人を促し蜂起させる。加藤領には毛利軍が侵攻し交戦した(三津浜夜襲)。藤堂領で蜂起した国人は藤堂家に鎮圧されている。, 輝元は秀元と広家、恵瓊を出陣させ、毛利軍は伊勢国安濃津城を攻撃したのち、9月10日に南宮山に着陣した[151]。一方、同月1日に家康も江戸を出発して西上し、12日に岐阜に到着した[151]。, 輝元は大坂城にとどまっている間、家康の西上を阻止するために軍を南宮山に布陣させ、また離反者の情報を懸命に収集した[152]。西軍の大名には離反のうわさが飛び交っており、輝元は恵瓊からその報告を受けている[152]。だが、輝元は小早川秀秋が東軍に内通しているという報告も知らされていたが、最後まで対処できなかった[152]。, 一方、西軍が負けると判断していた吉川広家は黒田長政を通じて、毛利氏の本領安堵などの交渉を行った[153]。そして、9月14日には徳川方の本多忠勝や井伊直政が広家や福原広俊に対し、「家康が輝元を疎かにしないこと、領国をすべて安堵すること」を約束した起請文を提出している[153]。このとき、広家は毛利氏の諸将と協議せず、密約を結んだといわれている[153]。, 9月15日、関ケ原で西軍と東軍が激突したが、広家と秀秋の裏切りで西軍は敗北し、戦いは一日で終結した[154]。南宮山に布陣していた毛利の大軍勢は広家ら吉川軍に抑えられ、福原広俊が秀元の出馬を諫めたりしたため、傍観するほかなく、東軍と一戦も交えずに大坂に撤退した[154]。退却した毛利勢は輝元のいた大坂城には入らず、大坂市中に駐屯した[154]。, 西軍壊滅の報が大坂に届くと、大坂城内の諸将の間では主戦論と講和論が衝突した。輝元には秀頼を擁して、大坂城に籠城して戦うという選択肢が残されていた。また、大阪には無傷で帰還した毛利軍や、本戦に参加しなかった軍勢も多数存在した[154]。, 一方、家康は輝元に対して、17日に両者の良好な関係を望むとの書状を送り、大坂城からの退去を促した[154]。輝元もまた、19日に家康に返書を送り、所領安堵に関してどうなるかを聞いている[155]。9月22日付の起請文では、輝元が所領安堵を条件に、大坂城西の丸からの退去する旨を記している[155]。, そして、9月25日に輝元は所領安堵の起請文を受け取ると、秀元、立花宗茂、島津義弘の主戦論を押し切り、自ら大坂城西の丸から退去し、木津の毛利屋敷に入った[155]。その後、輝元は四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。, 9月27日、輝元と入れ替わる形で、家康が大坂城西の丸に入城した。その後、大坂城では輝元の花押が押された書状が多数押収され、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、実際には総大将として西軍を指揮していたことが明らかとなった[156]。, 10月2日、家康は広家の説明が事実ではなかったことを理由として、輝元と交わした所領安堵の約束を反故にし、「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」とした[156]。そして、家康は輝元を改易した上で、改めて広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした[156]。, しかし、広家は本家を見捨てることができず、10月3日に輝元が西軍の首謀者でないことを改めて弁解するとともに、周防・長門2ヶ国は輝元に与えるよう嘆願した[156]。井伊直政もまた、家康に起請文を破ることへの不義を訴えたため、家康も輝元の処遇を考え直した。, 10月10日、家康の命により、毛利氏の所領は山陽・山陰8ヶ国から周防・長門2ヶ国の29万8千石[注釈 5]に減封され、輝元が保持していた祖父以来の領地も多くが失われた(防長減封)[156][158]。結局、輝元が隠居することにより、秀就が周防・長門2ヶ国を安堵される形で決着し、毛利氏の改易は避けられた。, 同月[1]、輝元は剃髪し、法名を幻庵宗瑞(げんあん そうずい)と称した[1][159]。そして、嫡男の秀就に家督を形式的に譲り、秀就が初代の長州藩主となった。しかし、実際にはこれ以後も法体のまま、実質的な当主として藩に君臨し続けており、秀就との二頭体制が敷かれた[1][160]。, また、輝元は豊臣期末には自らを頂点とし、佐世元嘉、二宮就辰、榎本元吉、堅田元慶、張元至ら様々な出自を持つ5人の輝元出頭人が領国統治を主導するという、一元的支配を構築しつつあった[161]。だが、江戸時代になると、輝元が本国に在国し、一方の秀就は江戸に在国ということが多くなるという二頭体制により、江戸幕府との折衝が豊臣期よりも重要性が増した[161]。そのため、支配機構も変化を余儀なくされ、国許に在国して輝元を支える役職と、藩主・秀就に随従する役職の二元構造に移った[161]。, 慶長10年(1603年)8月、輝元は防長減封後、初めての帰国を許された[162]。その際、家康が輝元の帰国許可を出すにあたって、領内の任意の場所に居城を築くことを勧めた。, 同年10月4日、輝元は帰国し、周防国山口の覚王寺を仮の居所と定めた。輝元は領内の諸城の構築強化に努め、国境の築城も進んだため、居城の選定に着手した。減封後は暫定的に山口の高嶺城を居城としていたが、高嶺城は海辺に面していない点が近世城郭としては欠点であったため、別の候補地も探し、11月には防府の桑山を候補に選定したが、桑山は砂山で石垣を積み上げることが困難であり、節所もないことから決定には至らなかった[163]。その後、築城の有力候補として、阿武川の河口に位置し日本海にも面している長門国の萩に白羽の矢が立ったが、山陽道への往来が困難であり、位置が領内の北端に位置している点が欠点と考えられた。ここに至って、輝元は築城地の選定に幕府の意見を求めることとした[164]。, 慶長9年(1604年)1月、輝元は福原広俊を江戸に派遣し、広俊は既に江戸にいた国司元蔵と共にまず毛利氏の取次を務める本多正純のもとに赴き、防長両国の絵図を示し、候補である周防国山口の高嶺、防府の桑山、長門国萩の指月山のいずれを居城とすべきか意見を求めた。正純は国の地勢や方角について詳しく広俊に質問した上で比較し、暫定的居城の高嶺城では駄目なのかと問うと、広俊はその通りだと答えたため、桑山には節所がないこともあり、正純は所柄の良い指月山を勧めた。その上で、本多正信の意見も聞くように勧め、もし城地の選定について妨害する者がいたとしても我等父子がいるため安心するようにと述べた。その後、広俊と元蔵は本多正信、村越直吉に意見を聞き、最後に堅田元慶も連れて城昌茂に意見を聞いた結果、萩の指月山に居城を築くことに決まった[165][注釈 6]。, そして、輝元は萩城の縄張りを再三固辞する吉川広家に強く依頼して、2月18日に縄張初を行い[166]、築城がある程度進んだ11月10日に輝元は山口から萩城に移り住み居城とした。だが、萩城の普請は輝元の入場後も続けられ、翌年の慶長10年(1605年)には城の東門の取入、舟入の南喰違の石垣、北の浜辺の石垣等が完成する[167]。幕府は築城の規模を極めて小さくするように指示していたが、最終的に萩城は広島城に匹敵するほどの大規模な城郭となった[168]。, 慶長10年(1605年)7月2日、輝元は家中統制の必要もあり、熊谷元直と天野元信らを萩城の建築中の3月に発生した五郎太石事件に絡んで粛清した[169]。この事件は熊谷元直・天野元信ら両名と益田元祥との萩城の建設における争いが発端であるが、これにより城の建設が遅れたたほか、2代将軍となった徳川秀忠を祝うための輝元の上洛まで遅れることとなった。輝元は4月に上洛したものの、築城作業の遅延が幕府の不興を買うことを恐れ、6月に萩城に戻ると、7月には両名を追討するに至った。, 慶長15年(1610年)、領内検地の後、幕閣とも協議し公称高(表高)36万9,411石[注釈 7]に高直しを行ない、この表高は支藩を立藩した時も変わることはなかった。, 慶長19年(1614年)8月、方広寺の大仏鐘銘問題を契機として、江戸幕府と豊臣氏の緊張が高まった[170]。豊臣側は豊臣恩顧の大名に参陣を呼びかけたが、輝元をはじめ呼びかけに応じた大名はいなかった[170]。, 慶長19年(1614年)10月11日、輝元は家康が大坂城攻撃のため駿府を出陣すると、本多正純が家康の出陣を輝元に報じ、毛利氏領内での舟留めと不審な往来船の船改めを要請した。輝元は直ちに了承して舟留めと船改めを実行し、10月24日には幕府奏者番の城昌茂に報告するとともに、万事幕府奉行衆の指図通りに行動すると述べた[171]。しかし、九州から東上する船の内、どの船をどの程度の厳重さで舟留めすべきかが不明瞭であったため、輝元は駿府にいた宍戸元続と神村元種に対し、そのことを本多正純に入念に問い質し、可能であれば正純の墨付を入手するように命じた[172]。, 10月23日、家康が二条城に入ると、本多正純は10月24日に輝元へ奉書を送り、毛利氏の出陣を要請した[173]。, 11月3日、輝元は毛利秀元の留守を預かる毛利元鎮や椙杜元縁等に対し、秀元から出陣について申し下しがあれば留守衆の内の半分を東上させる一方で、椙杜元縁、西元由、三沢七郎兵衛など残る半分を留守居として長府に在番させ、もし万が一長府を維持できない変事があれば萩に引き上げること等を命じた[172]。さらに11月5日には、秀元領内の廻船を一艘残らず周防国三田尻に回航させること、船子も有り次第に用立てること等を命じている[173]。, 11月9日、周防国岩国の吉川広家は輝元の側近である井原元以に上方の情勢を伝え、輝元の出陣を促した。翌11月10日に輝元は益田元祥と山田元宗に国許の差配を任せ[注釈 8]、11月11日に萩を出陣し、周防国三田尻から海路で東上した。また、11月10日に徳川秀忠が伏見に到着すると、秀忠に従う酒井忠世、土井利勝、安藤重信は江戸にいる秀就と秀元に出陣を要請し、毛利氏は国許と江戸の両面から大坂城攻撃に加わることとなった[173]。, 11月14日夜、輝元は備前国児島郡下津井に、11月17日未明には摂津国兵庫に到着し[174][注釈 9]、直ちに兵庫到着を本多正信・正純父子や、家康の軍に従軍する平川孫兵衛に報じた。また、萩の益田元祥と山田元宗には、自身の兵庫到着や家康の住吉着陣、秀就と秀元も近日に大坂に到着することを報じ、不足する兵粮と軍用金を急ぎ送るよう求めている。さらに、輝元は従軍する家臣等に黒印の掟を布告し、陣中の法度を厳とした。, しかし、輝元は長い航海の疲労からか病にかかってしまったため、井原元以を家康の陣中に遣わし、病により軍務がままならないことを謝した。家康は近日中に西上する秀就に大坂城攻撃を委ね、輝元は国許の仕置きなどをするように答え、秀就の到着を急がせることを促した。, 11月21日、輝元は次男・就隆を名代として宍戸元続と共に家康に面会させ、同日夕刻には秀就へ西上を督促する書状を送った。また、11月22日には留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に対し、秀就が到着次第帰国すると報じた。, この頃、家康は大坂城の堀の水位を減少させて攻撃しやすくするために、摂津国西成郡江口に堰を築いて淀川を塞き止め、淀川の支流の伝法川に舟橋を架けるよう、輝元に対して要請した。, 11月22日、要請を受けた輝元は留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に使者を送って、普請に必要な兵糧と銀子を昼夜兼行で急送するように命じ、11月23日には後から東上した吉川広家と繁沢元景を江口に派遣し、工事を監督させた。さらに11月24日には、輝元自ら普請を督するために摂津国西宮へ陣を進めた。, 11月29日、本多正純は宍戸元続を通じて、家康の意向により河内国茨田郡守口へ陣を進めるように要請したが、輝元はそのまま西宮へ滞陣を続けた[注釈 10]。また、京都所司代の板倉勝重が江口普請場へ乱暴狼藉の禁令出すと、12月3日に輝元も現場の吉川広家、繁沢元景、毛利元倶に対し、西宮で他所の者と紛争し狼藉に及んだ者を捕らえた事例を伝え、よくよく乱暴狼藉を制止するよう命じた。, 12月6日、秀就と秀元が大坂に到着し、茶臼山の家康や西宮の輝元と面会した後に大坂に着陣した。秀就が到着したため、12月8日に家康は柳生宗矩を使者として輝元に衣服等を贈って滞陣の労を謝し、帰国して療養することを勧めた。, 12月10日、輝元は茶臼山の家康を訪ねて帰国の挨拶をした後に宍戸元続を伴って帰途につき、12月18日には周防国三田尻に到着した。輝元は秀元の命により東上する椙杜元縁に対して三田尻での面談を要請したが、元縁が病で面会に応じられなかったため、12月21日に輝元は秀元が吉川広家や福原広俊と衝突することを戒める訓諭を書状にしたためて元縁に与えた。, 一方、大坂に残る毛利軍はその後もさほど戦闘を行わないまま、12月20日には徳川方と豊臣方の講和が結ばれ、大坂冬の陣は終結した。, 慶長20年(1615年)4月17日、輝元は本多正純から届いた奉書によって、徳川方と豊臣方が手切れとなった際には摂津国の兵庫、西宮、尼崎付近へ出陣する準備を命じられると、直ちに秀元を毛利軍の先鋒とし、宍戸元続、毛利元倶、毛利元宣、毛利元鎮らを従軍させると決定した。, 4月18日、家康が二条城に入り、4月21日には秀忠が伏見城に入ったことで、本多正純は毛利氏への出陣を要請した。これにより、4月28日に先鋒としてまず秀元が出陣し、5月4日に秀就は吉川広正や宍戸元続をはじめとする毛利氏の主力を率いて周防国三田尻を出航したが、秀就は大坂城陥落には間に合わなかった。しかし、家康はそもそも毛利氏へ出陣命令を出すことが遅れたことが原因であるとして、これを不問としている。, 大坂夏の陣においては、内藤元盛(佐野道可)、烏田通知、幸田匡種、笠井重政など、豊臣方に加わった毛利氏旧臣がいたが、輝元の母方の従兄弟で重臣の内藤元盛が「佐野道可」と名乗って大坂城に入城したのは輝元、秀就、秀元、宍戸元続らの謀であるとする説がある[170][176][注釈 11][注釈 12]。, 大坂夏の陣後、5月に内藤元盛が京都郊外で捕縛されると、取調べの担当である大目付の柳生宗矩から輝元の命によって元盛が大坂城に入城した疑惑を問い詰められたが、元盛は独断で入城したと主張し、21日に自刃したことにより毛利氏への嫌疑は不問となった[179]。その後、内藤元盛の子である内藤元珍と粟屋元豊が家康に謁見し、元盛とは無関係であるとの釈明を認められて帰国したが、輝元は帰国した二人を自害させた上、内藤元珍の子・元宣を幽閉した[180]。, 大坂の陣の後、輝元は大坂の陣の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。, 元和2年(1616年)7月19日、輝元は家中融和の策として、一人娘の竹姫を吉川広正と婚姻させた[181][注釈 13]。, また、元和3年(1617年)11月には繁沢元景の媒酌により次男・就隆と秀元の長女・松菊子を婚約させ、元和7年(1622年)7月28日に正式に婚姻させた。, 元和4年(1618年)8月25日、輝元は清水元親らに命じて、かねてから対立していた吉見広長を追討し、自害に追いやった[182]。, 広長は毛利家中での処遇に不満を持ち、関ヶ原の戦い後に独立大名化や他大名への仕官を図って、慶長9年(1604年)から元和3年(1617年)までの13年間に渡って毛利氏を出奔していたが、大坂の陣の後に許されて帰参していた[183]。他方、輝元は広長の出奔を理由として、吉見氏を毛利氏に吸収するため、慶長17年(1612年)に吉川広家の次男である彦二郎(後の毛利就頼)に吉見広頼の娘を娶らせて吉見氏を相続させるなど、両者の対立が深刻化していた[183]。, 輝元は広長との不和に対して、幕府からお家騒動の嫌疑を掛けられ、ひいては毛利氏改易に繋がることを恐れていた[184]。そのことが輝元に広長の追討に踏み切らせることに繋がった[184]。, 広長の死より、源範頼以来続いた源氏の名門・吉見氏が事実上滅亡したが、輝元は吉見氏に厳しい処分を下した。広長の父・広頼は同心していなかったとして隠居料を安堵されたが、家臣らに対しては広長補佐の役割を果たさなかったとして追放処分を科し、あわせて防長二国への入国禁止、違反した場合は成敗するとまで言い渡した[184]。, 元和5年(1619年)8月、輝元は健康の悪化も顧みず、5月に上洛していた将軍・秀忠に面会して大坂の陣以来の毛利氏に対する好意を謝すため、合わせて今後のことも宜しく依頼するため、あえて上洛に踏み切った[185]。, 輝元は病をおして萩城を発ち、8月13日に大坂、8月16日に京に入り、妙伝寺を宿所とした。輝元が入京すると、幕府の年寄衆は直ちに使者を送って輝元の無事の上洛を祝し、8月19日には高力忠房が秀忠の使者として輝元の宿所を訪ね、老躯を推して上洛し祝着である旨を伝え、土井利勝も秀忠との謁見は長旅の疲労を癒してからで良いと内々に伝達した[186]。, 8月25日、輝元は土井利勝の宿所を訪ねて饗応を受けてから、秀忠の宿所である二条城に登城した[185]。登城の際には、秀忠の勧めにより玄関まで輿で乗り付け、神尾守世、柳生宗矩、曲直瀬玄朔らに手を引かれて参入し、秀忠の前では本多正純に手を引かれ、土井利勝の取り持ちで秀忠に謁見した。秀忠は輝元と会ってゆるゆると懐旧談をするつもりであったが、輝元の病状が思いのほか良くないことから懐旧談をするのは取り止め、懇ろに遠路上洛した輝元を労うと共に養生するよう輝元に伝えた。なお、輝元登城の際に秀忠がこのような特別な計らいをしたのは、京に滞在中の輝元がしばしば曲直瀬玄朔の薬を服用し、他人との面会を謝絶して秀就や秀元に代理をさせていたためである。, 8月28日、土井利勝が上使として来訪すると、輝元は秀忠の計らいや土井利勝の懇意への感謝を述べ、秀就、秀元、就隆、吉川広正の今後を頼むと共に、遠国のことであるのでもし毛利家について不審に思う点があれば内証に尋ねて欲しいと依頼した[187]。, こうして、輝元は上洛の目的を果たし、9月1日に京を発って帰国したが、この時の上洛が輝元の生涯で最後の上洛となった[188]。

第五人格 メッセージ 通知, 面白い 漢字 小学生, キンプリ 不仲 文春, 梅乃 屋 台風, 石川県中学 サッカー 速報, のど自慢ザワールド 2020 秋, 福岡県 職業訓練 コロナ,